モダンダンスの母 イサドラ・ダンカン
イサドラ・ダンカン(1877年 - 1927年)
アメリカ生まれのダンサー・振付家で、20世紀のモダン・ダンスの改革者です。
「身体を絞めつけることは、自然としての身体に逆らうこと」という考えから
ギリシア風の柔らかいチュニックを身に着け、靴を履かないで裸足で踊りました。
自分の芸術を理解してもらうには大西洋を渡らなければならないと
感じたイサドラの初のリサイタルは1900年のロンドンでした。
1900年5月17日付「タイムズ」紙に載ったリサイタル批評より
メンデルスゾーンの曲に制作した音楽詩「春へのいざない」はとても優雅で、
観ている人々に花々や、小鳥たち、そして戯れる子羊たちの情景を連想させる。
コスチュームはボッティチェリの「プレマヴェーラ」の絵からとったもので、
この踊りの雰囲気にぴったりだ。(中略)
不動の瞬間のまるでない、絶えずステップを踏んで動く様は、
あたかも古代ギリシアの日々に、まさしくそのようなダンスが踊られたであろうと
思わせるような動きだ。
1900年にはパリへ移り
パリ万国博覧会で日本の舞踊家、貞奴のリサイタルを観て、日本人舞踊家の
しなやかな動きに感銘を受けています。
パリでは、人体構造をよく理解し、力強い気力溢れる彫刻作品を生み出す
ロダンに感銘を受け、アトリエを訪れています。
(ロダンによるイサドラの素描)
「未来の舞踊家となる子供達を自身の考える理想の舞踊家に育成したい」という
イサドラの強い思いから、1904年にドイツのベルリン・グリューネヴァルトに
舞踊学校を設立しました。寄宿学校で、通常の教育に加えて、ダンスも教えて
いましたが、生徒たちはプロのダンサーになることを期待されておらず、
奨励さえされていませんでした。
イサドラは学校案内書の中で、教育理念をこのように述べています。
「人間の身体の美しい音楽的な動きを再発見すること
最も身体の形に調和する理想的な動きの舞踊を再び呼び戻すこと
そして2000年の間眠っていた芸術をもう一度呼び起こすこと」
イサドラの設立したグリューネヴァルトの学校は1908年に閉校しますが、
その後もフランスのパリ、そしてロシア革命後のモスクワに
ダンス学校を創立しました。
参考文献:
「踊るヴィーナス -イサドラ・ダンカンの生涯」 フレドリカ・ブレア著
「オーギュスト・ロダン 彫刻と素描」 ジル・ネレ著
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