ドイツ表現主義舞踊_1
アメリカでイサドラ・ダンカンが裸足で踊り出した頃
ドイツには、また別の流れがありました。
「表現主義」という
第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった
建築、舞踊、絵画、彫刻、映画、音楽など
各分野にわたり「黄金の20年代」と呼ばれた
ベルリンを中心に花開いた前衛芸術の運動です。
客観的表現を排して内面の主観的な表現に
主眼をおくことを特徴とし、表現主義舞踊は
ノイエ・タンツとも呼ばれました。
マリー・ヴィグマン(1886年 - 1973年)は
ドイツ表現主義舞踊の代表的なダンサーで振付家です。
子供のころバレエを習っていましたが、
教師はヴィグマンが骨っぽい体つきと
男性っぽい容姿を観てバレエをやめたほうが
いいと言ったそうです。
それでも踊りたかったヴィグマンは
エミール・ジャック=ダルクローズに
師事します。
ジャック=ダルクローズはスイス出身の
作曲家・音楽教育家で、
運動を通じて音楽を学ぶ、
音楽学習の一つ「リトミック」を発展させました。
ヴィグマンは更に、モダン・ダンスの革新者
ルドルフ・フォン・ラバン(1879年 – 1958年)にも
師事しています。
ラバンが情緒と表現の理論を作り上げようと
必死になっている一方で、
ヴィグマンは即興的に感情の表出をしよう
とするので「あなたはグロテスクな怪物で、
私の理論を破壊しようとしている」
そう、ラバンにののしられたといいます。
ルドルフ・フォン・ラバンは後に
ラバノーテーションというダンスの動きを
記録するための記譜法を考案し、
バレエと心理学、哲学、神秘論を結び付け、
モダン・バレエの舞踊理念を打ち立てました。
ヴィグマンは1931年 ニューヨークに
「マリー・ヴィグマン舞踊学校」を設立し
ルドルフ・フォン・ラバン(主にダンスの
記譜法)とエミール・ジャック=ダルクロー
ズ(主にリズム感)の理論を融合し、
ダンス界に革新の風を起こしました。
1942年 には第二次世界大戦の影響で
「マリー・ヴィグマン舞踊学校」を閉鎖しますが
1950年 西ベルリンのスタジオを中心に教育活動を続けました。
ダンスの記譜法によって、「ダンスを
システム化し、他人にもそれを教える事が
できる」、「誰にでも踊る事が出来ること
を証明」し、クラシック・バレエに対する
抵抗(レジスタンス)として、モダンダン
スの裾野を広げました。
1936年 ベルリン・オリンピックでは、
オリンピック競技場でで舞踊劇
「死者の嘆き」を公演しています。
参考資料:「バレエの魅力」 マーゴ・フォンテーン著
「ダンスハンドブック」 新書館
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