イサドラ・ダンカンがバレエに与えた影響
イサドラ・ダンカンのダンスは
あまりにも自然で、テクニックに凝らないものだったので
人間の動きを詩人の言葉に置き換えて表現するようで
「動きの詩人」と呼ばれることもありました。
マーゴ・フォンテーンは著作の中で
「行き当たりばったりに、とんだり、跳ねたりしていた
だけのイサドラ・ダンカンを
モダン・ダンスの母と呼ぶことには賛成しかねる」
とまで書いています。
このように、モダン・ダンスはおろか
クラシック・バレエとはまったく無縁のように考える人も
いるイサドラ・ダンカンなのですが
1904年12月の終わりにロシアで公演をしています。
この時代
帝室バレエ(現在のマリインスキーバレエ)では、
「眠れる森の美女」をはじめ多数のバレエ作品を創作して
クラシック・バレエの確固とした形を確立させた
マリウス・プティパが
34年間務めたバレエマスター(振付家兼芸術監督)を退職したばかりでした。
34年間は長いですよね!
それだけの長きにわたって同じ振付家・芸術監督だった後に
プティパより62歳も若いミハイル・フォーキンが
新たなバレエマスターに着任したので
フォーキンにとってはプティパのバレエは古めかしく
大袈裟に感じられました。
(ミハイル・フォーキン(1880年 - 1942))
フォーキンが1904年に帝室劇場に
バレエ改革の具体的な提案を示すために書いた手紙には
次のように書かれています。
「相変わらずの短いスカート、ピンクのタイツ、サテンのバレエシューズなどはもはや必要ない。自由な芸術の空想に任せればよいのだ。
バレエの動きは踊り手が観衆の拍手に応えることで中断されるようなものであってはならない。
バレエでは体のリズムを通じて概念や、情緒、感情を表現することが可能となる。踊りは動きの詩である。」
1904年に、既にそう感じている人がいたんですね。
フォーキンは当時としてはかなり新しい考えの人だったんですね。
フォーキンはこの年、イサドラ・ダンカンの公演を
セルゲイ・ディアギレフと観に行きました。
この時にイサドラがフォーキンに与えた影響を
ディアギレフはこのように書いています。
「私はフォーキンとともに彼女の第1回目のコンサートを観たが、
フォーキンは全く彼女に夢中だった。
ダンカンが彼に与えた影響は、実に彼の創造のすべての基盤となっている」
ディアギレフは、この5年後、
1909年にバレエ・リュス(ロシアバレエ団)を結成します。
ミハイル・フォーキンはバレエ・リュスで「レ・シルフィード」「ダッタン人の踊り」「シェヘラザード」「火の鳥」「バラの精」「ペトルーシュカ』という
現代でも再演されているバレエの傑作をつぎつぎと振付けて大成功をおさめますが
フォーキンはその後の創作にイサドラから大きな影響を受けていました。
バレエ用の音楽ではなく、ショパンのピアノ曲で即興的に踊ったイサドラからの影響は
ウェーバー作曲の舞踏への勧誘に振り付けたフォーキンの「バラの精」などにみられますし、「エウニス」の振付では裸足で踊る振付けをしようとして、劇場サイドから許可がおりず、しかたなくタイツに足の指を描いて踊ったほどでした。
(タマラ・カルサーヴィナ(1885年 - 1978年))
バレエ・リュスのバレリーナ、タマラ・カルサーヴィナもまた
1904年のイサドラの公演を観ています。
カルサーヴィナの感想は、世の中の動向も把握しながら、
冷静に新しい芸術を受け入れる度量のある、理性的なものです。
「イサドラは、瞬く間にペテルブルグの劇場世界を制覇した。
もちろん保守的なバレエ愛好家たちもいて、彼らにとっては裸足の舞踊家などというのは芸術の第一原則である神聖にも反する事だった。けれどもこうした考えは一般の意見とはおよそかけ離れたもので、目新しさを求める雰囲気が人々の間にはあった。
初めて彼女の踊りを観た私は完全に制服されてしまったのを覚えている。彼女の芸術と私たちの芸術との間にはほんのわずかな敬意も感じられなかった。互いの領域にとって有益となる余地のようなものが感じられて、相互に学べば多大な効果が得られるだろうと思われた」
イサドラ・ダンカン本人が踊るダンスがどのようなものだったのか
今ではそれを残す映像は、隠し撮りされたごく短い断片しか残っていません。
けれども、今もイサドラに触発されて後世に作られたバレエ作品が
生まれ続けています。
フレデリック・アシュトン振付
「イサドラ・ダンカン風のブラームスの5つのワルツ」
参考文献:
「踊るヴィーナス イサドラ・ダンカンの生涯」 フレドリカ・ブレア著
「ニジンスキー頌」市川雅 編
「バレエの魅力」マーゴ・フォンテーン著
「バレエヒストリー」芳賀直子著
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