「クルト・ヨース」反戦をテーマにバレエを創作した振付家

クルト・ヨース(1901年 - 1979年)は、

クラシックバレエと演劇を融合させた

「タンツテアター」の創始者で、

ドイツのバレエダンサーであり

振付師です。


主観的で抽象的なテーマで

独特なスタイルを確立した

イサドラ・ダンカンマリー・ヴィグマンなどの

モダン・ダンスの先駆者達とは異なり


ヨースは筋書きのないダンスを嫌い、

社会的で道徳的なテーマを好みました。


シュツットガルト音楽学校で

ルドルフ・フォン・ラバンに師事した後

1924年にミュンスター私立歌劇場で

バレエマスターに就任します。


1927年にはフォルクヴァング芸術学校

フォルクヴァング・タンツビューネと

いうカンパニーを設立し、

そこで作られたのが

ヨースの振付作品の中で最も重要な作品

「緑のテーブル」です。


1932年にパリのシャンゼリゼ劇場で行われた

新作振付国際コンクールで1位を獲得しています。


「緑のテーブル」は明確なバレエでの反戦声明でした。

アドルフ・ヒトラーがドイツの首相になる

一年前のことでした。


(緑のテーブル(1932))


1933年、クルト・ヨースはナチスから

ユダヤ人の作曲家フリッツ・コーへンとの

絶縁を命じられます。

そして、それを拒否したことをきっかけに

祖国からイギリスに亡命することになります。

第二次世界大戦の終結後

ヨースはイギリスを離れ再び

ドイツのエッセンに戻ります。


フォルクヴァング芸術大学(Folkwang Universität der Künste)

で、再びディレクターとして教育に力を注ぐと同時に

新たな舞踊団も起ち上げ、引退にいたるまで振付家、

指導者として精力的に活動し、

1979年に亡くなるまで、

芸術に人生をかけた人でした。


この時期の最後の生徒の一人が振付家の

ピナ・バウシュです。


ピナ・バウシュは、クルト・ヨースの

「普通の人々を中心にしてダンスを表現しよう」

という考えを受け継いで

踊りと演劇を融合させた「タンツテアター」を

成熟させ、コンテンポラリーダンスが誕生する

次の時代へつないだ正当な後継者といえるのでは

ないでしょうか。

(クルト・ヨースとピナ・バウシュ




YURI ecole de ballet contemporain

ユリ・エコール・ド・バレエ・コンテンポラでは ひとりひとりの個性を大切に 基礎を大切に クラシックバレエと コンテンポラリーダンスの 指導をしています